電話でのお問い合わせはTEL.0467-78-3017
〒252-1131 神奈川県綾瀬市寺尾北2-17-44
【10月の聖句】 (ペトロの手紙T 4章10節) 「賜物(たまもの)」とは、神さまから人間に与えられている素晴らしい贈りもののことです。その人が持っている様々な能力や才能、善きもの、祝福、恵みはすべて賜物です。 「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」 私たちに与えられている、さまざまな能力や才能が神さまから託されたものであり、その力の源が神さまにあることを知るとき、人は奢ること無く、謙遜に、その恵みを豊かに用いることができる者へと変えられる、そのように思います。 |
|
【9月の聖句】 (詩編23篇1節)
詩編23篇は、イスラエルの第2番目の王、ダビデによって書かれました。 「主」とは神さまのことで、神さまが「わたしの羊飼い」として、「わたしに」必要なものはすべて備えてくださるお方であると賛美しています。 イスラエルでは、古代から神さまと人間の関係を「羊飼い」と「羊」にたとえて語られてきました。それは、羊が、弱く、無防備であり、いつも配慮する者や監督する者が必要で、そのような羊に対して羊飼いが密接に世話をしたからです。 羊飼いは、羊のために、いつも注意を払い、乾燥した、暑さのきびしいパレスチナで、毎日規則的に水を与え、野獣、盗人などの来襲から守らなければなりませんでした。詩編23篇4節には「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」とあるのですが、羊飼いは、長さが1.7mの、その一端が曲がった建材の杖を持ち、群れから離れた羊を引き戻すために用いたと言われます。また長さ75pほどの一端が太く、すりこぎのような形にしたものに釘を打ち込んだ建材の棍棒(しもと)を持ち、群れに襲いかかる野獣を撃退するのに用いたそうです。さらに遠くから猛獣を撃退するために投石器を用いました。そのように羊飼いは、猛獣や略奪者から群れを守ったのです。時には血を流し、生命を捨てることもあったそうです。その羊飼いと同じように神さまは、人間が神さまのもとから離れ、道に迷ってしまったときに、その人をご自分のもとに連れ戻してくださり、命の危険から守ってくださるお方であることを感謝してほめたたえているのです。 また羊飼いは、夕刻に、羊の群れをおりに入れる時には、おりの入口に立ち、杖の下をくぐらせながら羊の数を調べるのだそうですが、それぞれの羊には名前がついていて、羊飼いは一匹一匹がどの子かわかったそうです。そして羊たちも自分の羊飼いの声を知っており、他の群れと一緒に混ざることがあっても、それぞれの羊飼いの声を聞き分け、自分の名を呼ぶ羊飼いのもとに集まるそうです。 羊飼いには相当の苦労もありますが、時には群れを見守りながら昼は樹の陰に憩い、沈かに黙想し、夜は星空を仰いでその広大な美しさに心を打たれることもありました。ダビデは少年時代、羊たちの世話をしていたので、その体験を通して神さまの恩寵をこの詩編23篇に記しています。 イエス様は、「私は良い羊飼いである」と言われました。良い羊飼いは自分の羊を命をかけて守るからです。イエス様は、ご自分の命を捨てて、私たちに神さまと共に生きる新しい命を与えてくださいました。そして今も生きて働いておられ、私たちを守り、憩いの水際に伴い、魂を生き返らせてくださる「わたしの羊飼い」であられます。 |
|
【7月の聖句】 どんなことにも感謝しなさい。」 (テサロニケの信徒への手紙5章16節−18節) この聖句は、新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙』の中に記されています。『テサロニケの信徒への手紙』は、キリスト教の大伝道者パウロという人が書いたもので、新約聖書の中にある手紙の中で一番早くに書かれたものです。 「いつも喜ぶ」ことができたら、どんなにか素敵でしょうと思いますが、私たちには喜べる時と喜べない時があります。また「どんなことにも感謝しなさい」と言われても、感謝できない場合も多々あります。 実は、パウロが、この手紙を書き送った目的は、テサロニケの教会の人々を励ますためでした。パウロ自身、この手紙を書く前や、書いている時も、また書いた後も、大変な困難や苦闘がありました。でも、神さまがいつも共にいて彼を助け、支え、勇気を与え続けてくださったので、パウロとイエス様を信じる弟子達の働きは、神様に祝福され、イエス様を信じる人々が各地に起こされ、教会が建てられていったのです。 それでは、このパウロの言葉を現代に生きる私たちに向けて語られた聖書の言葉として受けとめ、これらの言葉を守ることができるだろうかと考えたいと思います。 「いつも喜ぶ」ことができるのは、どういう時でしょうか。自分にとって一番大切な存在、愛おしい存在を心に思い浮かべてみてください。それは過去の存在であっても大丈夫です。その存在を思い浮かべるとき、私たちの心は嬉しく思い、いつも喜ぶのではないでしょうか? イエス様を信じる人は、どんなことがあっても、イエス様がいつも一緒にいてくださることを知っているので、イエス様の存在を喜ぶことができます。悲しくても、辛くても、苦しくてもイエス様を喜ぶことができます。ちなみに私はイエス様以外には、愛する猫のタコハチ(もう天国に行っています)を思い浮かべると、自然と心が喜びます。 「絶えず祈る」ということは、すべてをご存じのイエス様に何でもお話することです。自分の心の中にある思いをイエス様にお話するのです。嬉しいことも、嫌なことも、悲しいことも、いろいろな願いも、すべて自分の心の中の思いをイエス様にお話するのです。これなら何とかクリアできそうな気がします。 むずかしいのは「どんなことにも感謝する」ことではないかと思います。日々の生活の中で、今、生かされている命、日々与えられる食事、豊かな自然の恵み、家族のこと、子どもたちのこと、様々な恵みを覚え、感謝することができます。でも「どんなことにも」という点でハードルが高くなります。「そこまで心が広くない」と開き直ってしまえばそれまでですが、「長い目で考える」ということが、私たちの心を広くさせるのではないかと思います。「今の苦労は、将来、きっと何かの役に立つ」そう考えると忍耐力が養われます。 聖書に「万事が益となるように共に働く」(ローマの信徒への手紙8章28節)という言葉があります。これは旧約聖書の物語を通して神様が私たちに与えてくださる知恵でもあります。神様に愛されていることを知り、神様が自分にとって最善を為してくださるお方であることに信頼いたしましょう。 |
|
【6月の聖句】 そうすれば見つかる。」 (マタイによる福音書7章7節)
教会では毎年6月の第2日曜日に「子どもの日・花の日」礼拝をいたします。今年はペンテコステ礼拝と同じ日ですが、子どもたちが美しく咲く花々のように神さまの愛に守られて、すくすく育つことを願います。神さまはわたしたち一人ひとりを花々のようにそれぞれに美しさを与えてくださっています。大人も子どももみんな神さまの子どもです。一人ひとりが神さまからたくさんの愛情と祝福をいただいていることを知っていただきたいと思います。 イエス様は、私たちに、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」と教えられました。そして「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」と言われました。 神さまのことをもっと知りたい、神さまがどのようなお方かもっと知りたい、そう思っている方は是非、天の父なる神にそのことを願い、聖書の学びや子どもの教会に参加していただきたいと思います。そうすれば、きっと神さまはご自分のことを教えてくださいます。 また、わたしたちは神さまの子どもとして、何でも神さまに願うことができます。ですから「求めなさい」という教えは、神さまのことを求めること、神さまの御心を求めるという祈りに加えて、私たち自身の必要を祈り求めることができるということでもあります。天のお父さんはわたしたちに必要な良いものを必ず与えてくださるお方だからです。 「探しなさい」「門をたたきなさい」という教えも天国の門を探す、その門をたたくという意味もありますが、自分が進みたいと思う道、学びたいと思うことが何であるのか探し求める、あるいはその分野の門をたたくということにもつながると思います。以前、「自分探し」という言葉がよく使われました。自分探しとは、アイデンティティの確立や自己実現のための取り組みを意味する言葉ですが、「自分らしさとは何か」また「自分にとって何が意義のあることであるのか」、「自分は根本的に何を求めているのか」を自己洞察したり自己吟味したり、自分の夢を実現するためにいろいろなことを体験したりすることであったりします。 自分にとって意味があると感じることを見つけると、大変なことであっても、そこに意味があることで前向きに対処することができるように思います。自分は何が好きなのかを考えてみることや好きなことのために学びを深めていくことも意味があると思います。 |
|
【5月の聖句】 (マタイによる福音書6章28節) 小河由美子 野の花の美しさは、よく見ないと気づかないことが多いと思います。でもよく見ると、小さな青い花、白い花、赤い花、桜色の花、薄紫色の花、黄色い花、オレンジ色の花、形もそうですが、それぞれに花の色がとても美しいのです。 我が家の外壁と道路のほんの少しの隙間から雑草が生えてくるのですが、野の草の生きることへのたくましさに勇気づけられたりもします。抜くのをちょっと怠ると、いつの間にか黄色いタンポポの花が咲いて、可愛いので抜くことができずそのままにして、つぼみがついていないものだけ抜いて・・等していたら、しばらくの間抜けなくなってしまいます。ご近所の手前、早く何とかしなければと思うのですが、雑草があると散歩をしている犬たちが喜ぶかもしれないとも思ってしまったりします。 さて、今月の聖句は、イエス様が、明日の食べ物や着るもののことについて思い煩うことの多いガリラヤ地方の貧しい人々に向けて語られた御言葉です。「空の鳥をよく見なさい」「野の花がどのように育つのか注意してみなさい」。鳥は種も蒔かず、刈り入れもせず、収穫した作物を倉にも収めないけれども、神さまがちゃんと養ってくださっているでしょう、同様に、神さまは野の花もどのような豪華な衣装よりも美しく装ってくださっているでしょう、「今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのだから、まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」、だから心配しすぎないようにしなさい、と教えておられるのです。 私たちにも日々の生活の中で思い煩うことがあるかと思います。しかし「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」とイエス様はおっしゃいます。 |
|
【4月の聖句】
この聖書の言葉には、いつも新しい命の力強さを感じさせられます。 20年以上も前のことですが、当時、植物の育て方が良くわかっていなかった私は、霜が降りた寒い冬の朝、外に出していた観葉植物の土が乾いていたので、お風呂の残り湯を葉っぱの上からかけてしまったことがありました。夕方になって、霜焼け状態となっていた葉っぱを見て「しまった!」と思いましたが、時すでに遅し。案の定、その後何日かしてその観葉植物は枯れてしまいました。このようなとき、根本から切るのが良いと聞いた記憶がかすかにあり、そうしたのですが3ヶ月経っても枯れた幹が残っているだけでした。やはり駄目だった、もう捨てなくてはと思いながらも捨てそびれていたある日、茶色くなった幹の端からほんの少し青い色が見えたのです。そして2,3日後、それは小さな小さな葉になったのでした。そのときの喜びは忘れられません。その後少しずつ成長し、毎年、春から夏にかけて新しい葉がたくさん芽生えるようになりました。5年もすると腰の高さほどになり、前より3倍も立派な観葉植物に育ちました。その観葉植物は鉢植えから庭に植え替えられ、今でもたくましく生きています。枯れてしまったとき、早々にあきらめて捨てなくて良かったとつくづく思います。何事も「自分の考えだけで判断するべきではないかもしれない」「早まってあきらめてはいけない」「注意深くあること」を教えられました。 子どもたちひとりひとりに、神さまから生きる力が与えられています。神様の祝福を豊かに受けて、のびやかに、たくましく成長されることを期待しています。 |
〒252-1131
神奈川県綾瀬市寺尾北2-17-44
TEL.0467-78-3017
FAX.0467-79-3746
(幼稚園と兼用)